太平洋戦争〜もう一つの世界線⑫

こんにちは講師のたかえもんです。

1945年3月27日から始まった「飢餓作戦」により、日本の物流は壊滅します。

1944年10月25日のレイテ沖海戦に敗北し、中国大陸や東南アジアから日本への海上交通路(シーレーン)はすでに絶たれていましたが、どうにか朝鮮半島からの輸送経路と国内の海運は生きていました。

しかし、「飢餓作戦」の発動により海外からの輸送は全面的に遮断され、国内での海上輸送もままならなくなります。

海外からの輸入ができないため、日本列島内で食料の自給をしないといけません。ですが、1945年は深刻な凶作に見舞われます。この凶作はもちろん天災ではありますが、人災でもありました。

戦場への徴兵や工場への徴用によって、農村部では深刻な人手不足が発生していたからです。太平洋戦争の開始時期と比べ、農業人口は約50万人も減っていたのです。

人手が足りないと十分な作付けができません。政府は女性や子供を無理矢理働かせましたが、不足した人手を補うには至りませんでした。

さらに化学肥料の不足が大きな問題となります。

2022年現在、世界人口は80億人を超えました。ところが、世界人口が10億人を超えるようになったのは今から200年ほど前で、人口はそれまでゆっくりとしか増加していませんでした。産業革命が始まってから爆発的に増えたのです。

人口の増加に関する重要な発明の1つに化学肥料があります。

肥料は農作物を作るのに欠かせないものです。しかし、肥料の生産には費用と時間がかかり、人類は十分な量を確保できませんでした。

肥料には三大成分と呼ばれる重要な成分があります。その三大成分とはチッ素、カリウム、リンです。

これらの成分のうち、チッ素を空気中から取り出す技術が20世紀の初めにドイツで生まれました。その技術をもとにして、人類は大量かつ安価な肥料を作り出すことに成功します。これが化学肥料です。

化学肥料は土壌に対する影響が大きく、効果の持続が短いといった難点を抱えていますが、農産物の生産を何倍にも引き上げました。結果として化学肥料は多くの人を飢えから救います。

日本も戦前から化学肥料を使用していました。現在の日本もそうですが、化学肥料なしに十分な農作物の生産はできません。

農業生産にこれほど重要な化学肥料ですが、その生産には電気が必要です。この電気が1945年になると不足します。

原因は発電に必要な燃料の輸入停止、そして空襲による発電施設の破壊です。

こうした電気不足に加え、化学肥料の生産に必要なチッ素以外の物質が「飢餓作戦」による海上封鎖で手に入らなくなります。

これでは必要な量の化学肥料を作ることができません。

化学肥料が農村に行き渡らなくなると、作物の収穫量は格段に低下します。

そこに天候不順による冷夏が日本に襲いかかります。

夏の気温が低いと稲は十分に育ちません。

戦争による人手不足と化学肥料の不足、そして天に見放されたかのような天候不順により1945年は大凶作が発生します。

この凶作を救ってくれたのは皮肉なことにGHQでした。降伏した日本に深刻な食糧不足が発生することを知ったGHQは大量の食料を放出し、大勢の餓死者が出ることを防ぎます。

もし仮に日本がポツダム宣言の受け入れをせず、本土決戦をしていたら数千万の餓死者を出していたと言われています。

「決号作戦」で本土決戦をしたくても、そんなことができる状況ではなかったのです。