太平洋戦争〜もう一つの世界線⑬
こんにちは講師のたかえもんです。
1945年は日本の海上を機雷で封鎖する「飢餓作戦」と天候の不順で、餓死者が多く出るのが避けられない状況でした。
また、食料以外にも「飢餓作戦」や空襲で多くの物資が不足することが予測されています。
塩を作る製塩工場が空襲によって破壊され、工業用の塩だけでなく食用の塩も不足することが確実でした。
人間は1日に6グラムの塩を必要とします。
塩が不足すると体力や免疫力が低下し、頭痛、吐き気、筋肉のけいれんなどの症状が出るようになり、最終的には死亡します。
関東を攻略する「コロネット作戦」は1946年3月1日に予定されていましたが、日本軍は塩不足で身体が満足に動かないまま戦う羽目になっていたはずです。
こうした生存に必要な物資以外にも、鉄鋼やアルミニウムといった戦争の遂行に必要な物資も不足します。
鉄鋼やアルミニウムは1945年8月以降の生産量がゼロになるという試算がされていました。新たな兵器を作る材料がなくなるのです。
それだけではなく終戦直前の1945年8月14日に、大阪造兵廠(ぞうへいしょう)が空襲で破壊されました。大阪造兵廠(ぞうへいしょう)は日本の砲弾を生産する重要な工場でしたが、それが使えなくなります。ただでさえ日本軍は砲弾が不足しているのに、補充のめどが立たなくなるこの出来事は致命的なでした。
このように軍事用の物資から生存に必要な物資まで、さまざまな物資が不足するのが1945年8月以降です。
この絶望的な状況を前に、日本軍の士気は崩壊し始めていました。上官の命令に従わない抗命や脱走が日を追うごとに増えていました。
兵士の間だけでなく一般民衆の間でも、工場勤務のサボタージュや農作地の耕作放棄といった士気の崩壊が起こっていました。
敵を迎え撃つ陣地は完成せず、住民の避難もままならない、そのうえ物資は不足し精神も疲労していたのが1945年8月の日本の姿でした。
こんな状態では本土決戦は無理です。「決号作戦」は理屈倒れの机上の空論になろうとしていました。