太平洋戦争〜もう一つの世界線③
こんにちは講師のたかえもんです。
実行されることなく終わった幻の「ダウンフォール作戦」。その前段作戦にあたる「オリンピック作戦」は1945年11月1日に予定されていました。
「オリンピック作戦」は九州南部を制圧し、関東地方への侵攻作戦(コロネット作戦)を支援するための航空基地の建設を目的とします。
マッカーサーを最高司令官として、約76万の兵士が参加するという空前の上陸作戦でした。
マッカーサーは、後にGHQのトップとなる「アイ・シャル・リターン(私は必ず帰る)」や「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」といったキャッチーな台詞で有名なあのマッカーサーです。
マッカーサーの率いるGHQは財閥の解体や農地改革、日本国憲法の制定など現在の日本を作り上げていきます。
こうしたGHQ時代のマッカーサーが日本人にとって1番なじみある姿だと思いますが、太平洋戦争末期は強硬な「ダウンフォール作戦」の推進者でした。
「ダウンフォール作戦」の前段作戦である「オリンピック作戦」は、鹿児島県の吹上浜と志布志湾、そして宮崎県の海岸の3箇所への上陸を目標とし、70万人が収容できる巨大な基地を作るということが計画されていました。
当然ながら、日本軍による強い抵抗が予想されます。そこでアメリカ軍は九州を孤立させることを目的とした、海上交通の遮断と徹底した空襲や艦砲射撃を実施しました。
3箇所の上陸目標のうち、吹上浜と志布志湾の2箇所の上陸目標をかかえる鹿児島県に対する空襲や艦砲射撃は強烈なものでした。
終戦直前の1945年7月から8月にかけて、九州では大量の爆弾が投下されます。
⑦佐賀県(116トン)
⑥大分県(259トン)
⑤熊本県(602トン)
④宮崎県(660トン)
③福岡県(755トン)
②長崎県(835トン)
①鹿児島県(2283トン)
文字通り桁違いの空襲が終戦の一ヶ月前に鹿児島県に対して行われました。
鹿児島のほぼ全域に対してこの空襲は行われ、鹿児島市の90%以上が破壊されるという徹底した攻撃でした。
恐ろしいのは、こうした攻撃が本命である「オリンピック作戦」の事前準備でしかないことです。
「オリンピック作戦」の発動は11月1日に予定されていました。終戦は8月15日です。もし日本が8月15日に降伏を宣言しなければ、「オリンピック作戦」発動までの2ヶ月以上の間もっと爆弾が投下されていました。
そして、その後に本格的な上陸作戦が行われることになります。
終戦直前のこの空襲で3000人以上の死者が出ています。8月15日に終戦を受け入れていなかったら、この何倍もの死者が出ていたことは明らかです。