ゴールデンウィーク 小田原城総構え一周①
こんにちは講師のたかえもんです。
来るまで待ち遠しかったゴールデンウィークも来てみればあっという間に終わってしまいました。
今年のゴールデンウィークは前々からやってみたかったことをしました。それは小田原城の総構え(そうがまえ)の跡を歩いて一周するというものです。
総構えとは、お城を城下町ごと土塁や堀で囲ったものです。小田原城はそれまでの日本にはないくらい大規模な総構えを備えていました。
よく小田原城は日本最大規模のお城と言われますが、それは総構えを含めた場合の規模を指します。
現在の小田原城を見るとそんなに大きなお城に見えません。それは二の丸までしか残されていないためです。最大規模だった時の小田原城は、現在の小田原城の外側に三の丸外郭があり、その外側に城下町、そのさらに外側に総構えがあるという構造をしていました。本丸・二の丸・三の丸・城下町・総構えという5重構造だったのです。
城を城下町ごとすっぽりと土塁や堀で囲うというのは他の城にはほとんど見られない構造で、小田原攻めで小田原を包囲した豊臣秀吉や徳川家康に影響を与えたと言われます。
この二人は後に大坂城と江戸城を築きますが、どちらの城も総構えを備えていました。
小田原城の総構えは全長約9㎞で、豊臣秀吉が築いた大坂城の全長7.8㎞の総構えよりも大きいものでした。
小田原城の総構えは、東は新玉小学校、北は荻窪の丹羽病院、西は板橋見附、南は海岸の手前を囲っていました。
そうした総構えの跡を歩いて、最も規模が大きかった頃の小田原城を体験してみたいと思っていたので、今回のゴールデンウィークに思い切って挑戦してみました。
出発は小田原駅東口の北条早雲像前です。そこから荻窪の丹羽病院へと北に歩き、反時計回りに総構えの跡を巡ります。
総構えの跡を歩くにあたって、小田原市が出している「はじめての総構」というパンフレットを利用しました。このパンフレットは総構えがどこにあったのかを示してくれる地図が載っています。なので「これを見れば迷わずに回れそうだ」と思い、小田原駅を出発しました。
しかし、それは甘い考えでした。
小田原駅東口を出発してすぐに道に迷います。地図を見ると、丹羽病院あたりで谷津の住宅街に入る、と書かれています。ところが住宅街なので道はたくさんあります。どの道に入ればいいのかさっぱりわかりません。
頼みの綱である「はじめての総構」に載っている地図は細かい道まで書かれていません。目印になる建物なども必要最底限しか分かりません。
これは見切り発車して失敗したなと後悔し始めます。開始早々、帰りたくなりました。
でもせっかく重い腰を上げてここまで来たのです。ここで諦めたら二度と総構えを歩いてみようと思わないでしょう。あまりに早く投げ出すのも格好が悪いので、後悔しながらもそれらしい道に入ります。
道があっていれば「城下張出(しろしたはりだし)」という遺構にたどり着くはずです。しかし、まったくそれらしいところに出ません。
やっぱり道を間違えていたようです。でも本当に道を間違えているのでしょうか?目印となるものがないだけで、もう少し歩けば到着するのでは?
頭の中でグルグル考えがまとまらず、地図を見ながら住宅街をキョロキョロ見回します。どこからどう見てもよそから来た旅行客です。小田原市在住の小田原市民の姿ではありません。ちょっとみじめです。
すると、今しがた来た道で大きく手を振っているご婦人がいます。誰に向かって手を振っているのでしょうか?あたりを見回しますが自分以外誰もいません。
自分ですか?と自分を指さすジェスチャーをします。
ご婦人はうんうんと大きくうなずきます。慌てて道を引き返し、そのご婦人のところに向かいました。
「総構え?それならこっちの道だから一緒に行こう」と道を案内してくれました。なんて親切なんでしょう。
「どんな地図を見てるの?これ?これはわかりづらいね。このあたりに住んでるけど総構えを見に来る人は結構多いよ」と「城下張出(しろしたはりだし)」に連れて行ってくれました。
総構えの跡を歩くなんてちょっとマニアックな観光ですが、以外と多くのひとが挑戦しているみたいです。
親切なご婦人のおかげで「城下張出(しろしたはりだし)」に到着しました。途中結構な坂があり、知らなかったらここを登ろうとは思わない坂です。
道案内は本当にありがたくとても助かりました。小田原も捨てたもんじゃないとしみじみ思いました。
でも「どこから来たの?え、国府津?地元じゃないw」と言われたときはやっぱりみじめでした。