「第二言語としての英語」と「外国語としての英語」⑥

こんにちは講師のたかえもんです。

前回、日本にとって英語は①「第二言語としての英語(ESL)」なのか、それとも②「外国語としての英語(EFL)」なのかという質問をしました。答えは②「外国語としての英語(EFL)」ですね。

日本では英語は公用語の1つになっていません。普段の会話は日本語を使いますし、日常的に英語を使った会話をすることはほとんどありません。そのため日本にとって英語は②「外国語としての英語(EFL)」であり、①「第二言語としての英語(ESL)」ではありません。

このシリーズの第3回の記事から、「生活言語(BICS)」と「学習言語( CALP)」のお話をしました。英語が①「第二言語としての英語(ESL)」である環境では、「生活言語(BICS)」と「学習言語( CALP)」の両方を習得する必要があります。それに対して英語が②「外国語としての英語(EFL)」である環境では、「学習言語( CALP)」の獲得の方が「生活言語(BICS)」の獲得よりも需要があり大切です。

日本の公立小学校から公立高校までの英語の授業時間数は約1000時間です。ところがこの時間数は英語を修めるのにまったく足りていません。授業時間数を2倍にしたとしても、まだ勉強時間は足りません。

日本人が今よりも英語を使えるようになるには、授業時間数を増やすことが最も必要なことです。

2021年度以降の学習指導要領の改訂により、中学校の英語は単語数が2倍以上に増え文法内容用も増えました。それにもかかわらず、授業時間数は据え置きのまま変わりません。

加えて、新しい学習指導要領はスピーキングやリスニングをこれまでよりも重視する方針を打ち出しています。これは、「学校教育は文法や単語重視で、話せるようにはまったくならない」という批判を受けてのことだと予測されます。

この結果、中学の授業は以前よりも単語や文法内容が増えたにもかかわらず、授業内でそれらを説明する時間が少なくなっているという事態に陥っています。あれもこれもと手を出して、どれも中途半端になっているのです。

たしかに理想としては、英語の文法も理解して会話もペラペラというものでしょう。ですが、現行の授業時間数ではそれは無理です。時間が足りません。

現実的に考えると「学習言語( CALP)」を重視した、文法や単語に偏った過去の教育方針は合理的であったと言えます。

「外国語としての英語(EFL)」が日本の言語環境である以上、限られた授業時間をリーディングとライティングに集中投資するのは正しい方針でした。

もちろん、方針が正しいからと言って、やり方も正しかったとは言いません。リーディングやライティング中心の授業であっても、授業のやり方はもっと良いものできたはずです。そこは改善の余地がありました。

ですが、現行の学習指導要領は方針を間違えています。これは大変まずい状況です。

二極化が激化するからです。

現行の学習指導要領では、限られた授業時間であれもこれもと欲張った授業をするしかありません。授業時間の制約によって、学校の先生は広く浅い説明しかできません。そんな授業でこれまで以上に英語をマスターせよという過大な学習目標が生徒に課されているのです。

そうなるとついていけない生徒はどこまでも取り残され、できる生徒だけが能力を伸ばすという二極化が進行します。生徒の力の引き上げではなく、生徒のふるい分けがおこなわれているのです。

これはできる生徒だけをどこまでも伸ばして、あとは切り捨てるという方針です。公教育でこの方針はまずいです。今の中学生は大変な状況で英語を学んでいます。

「好きだからできる」ということだけでなく、「できるから好きになる」ということもあります。またその逆に「できないから嫌いになる」ということもあります。

今の学習指導要領では、分からなくて英語が嫌いになる生徒が増えています。

公教育で英語ができる人を増やしたいなら、「できるから好きになる」生徒を増やして「できないから嫌いになる」を減らす方針をしっかり練るべきです。

どうも今回の学習指導要領の改訂は理屈倒れの気配が漂っています。英語の習得について様々な知見が蓄積されてきていますが、それを活用しているようには見られません。