太平洋戦争〜もう一つの世界線⑭
こんにちは講師のたかえもんです。
1945年3月27日から始まった「飢餓作戦」で約12000個の機雷がばらまかれました。
機雷による海上封鎖で日本の物流は破壊され、一千万人以上の餓死者が出ることは確実になりました。
日本がポツダム宣言を受け入れた後も、多くの機雷が日本の海に残されます。
戦後になっても残った機雷で100隻以上の船が被害に遭い、1200名以上が犠牲となりました。
「飢餓作戦」で連合軍(アメリカ軍)が敷設した機雷の処理には長い時間がかかりました。
終戦から27年経った1972年時点でも、機雷が敷設された全エリアの7%が機雷の処理がされていない状態でした。この時点でもまだ5000個以上の機雷が残されていたのです。
現在はほぼ全ての機雷が取り除かれていますが、それでも1年に2個ほど発見されます。
歴史を学ぶことの意義の1つに「過去の失敗を学ぶことで、その過ちを繰り返さないこと」があります。
日本は経済発展をしたり、豊かな生活をするために必要な物資の乏しい島国です。そのため、船による物資の輸入が不可欠です。
航空機による輸入も可能ですが、燃料代が高く、大量の輸送には向いていません。
太平洋戦争当時の日本の人口は約7000万人でしたが、現在の日本の人口は約1億2000万人です。太平洋戦争当時は、現在よりも人口が少なく農業従事者も多かったのですが、機雷による海上封鎖で大量の餓死者が出るところでした。
現在はその時代から人口が約1.7倍も増えたにもかかわらず、農業従事者はかなり減っています。
太平洋戦争の時は農業従事者が約1300万人いましたが、現在は120万人ほどしかいません。
もし日本が再び機雷による海上封鎖を受けたとしたら、太平洋戦争の時よりも悲惨な事態になります。
機雷による海上封鎖は、太平洋戦争の時代よりも現在の方が大きなダメージになります。
日本が機雷による海上封鎖を受ける時は、日本が他国との戦争状態になる時です。戦争は外交の失敗であるとよく言われますが、戦争では相手の国の弱い所を突くのが常道です。
日本は海上輸送が生命線であり、それが絶たれると窮乏するしかありません。そうならないように外交努力をしてきたのが戦後の日本です。その点では太平洋戦争の反省を活かしてきたと言えます。
こうした安定は国際平和が実現していればこそです。国際平和が破られ、国家間の対立が剥き出しになる時、日本の安定も崩れます。
そうならないことに越したことはないのですが、もしもの時のことは考えなくてはいけません。
備えあれば憂いなし。
其の攻めざるを恃む事無く、我に攻むる所あるべからざるを恃むなり。
平和を欲さば、戦への備えをせよ 。
最近の国際情勢を見ると、こうした格言が実感を伴ったものになりつつあります。