太平洋戦争〜もう一つの世界線⑨

こんにちは講師のたかえもんです。

1946年3月1日に予定されていた「コロネット作戦」は、千葉県の九十九里浜と神奈川県の茅ヶ崎・平塚に上陸して首都東京の制圧を目指す作戦でした。

この作戦で主戦場になる茅ヶ崎・平塚は小田原のすぐ近くです。そのため連合軍(アメリカ軍)は助攻や牽制として小田原への攻撃も予定していました。

1945年8月から連合軍(アメリカ軍)は、相模湾に面する都市(小田原、平塚、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉)への空襲や艦砲射撃を強化し、1946年3月1日に本格的な攻勢に入る計画を立てていました。

この連合軍(アメリカ軍)の計画通り、終戦直前に小田原一帯への空襲は増えます。

7月17日

平塚 死亡228名

早川 死亡1名

多古 死亡1名

7月30日

湯河原 死亡1名

8月3日

山北 死亡2名

8月5日

下曽我 死亡6名

国府津 死亡2名

小田原 死亡2名

足柄 死亡2名

8月7日

山北 死亡3名

8月13日

小田原 死亡2名

井細田 死亡13名

新玉 死亡3名

8月15日

小田原 死亡12名

このように小田原市に住んでいる人間にとって身近な場所で空襲の死者が発生しています。

8月15日の空襲は群馬県伊勢崎市や埼玉県熊谷市、秋田県秋田市土崎とならび、日本が受けた最後の空襲にあたります。

現在の浜町のあたりに深夜1時から2時にかけて空襲は行われ、約400軒が焼失しました。現在の清水旅館に、この空襲の説明板や資料室があります。

この空襲は伊勢崎や熊谷の空襲と大きく関係しています。

伊勢崎や熊谷で空襲した爆撃機の一部が帰りに小田原上空を通過します。その際、余った爆弾を投下したのがこの空襲です。こうしたついでの空襲は全国のあちこちで起こりました。

小田原への本格的な空襲は実施されませんでしたが、それでもこれだけの被害が出ています。

「コロネット作戦」が発動するまで日本軍がねばっていたら、間違いなく小田原は廃墟と化し、この何百倍者もの死者が出ていました。