第二次護憲運動③
こんにちは講師の高野です。前回は第二次護憲運動の背景について説明しました。今回は第二次護憲運動についてお伝えします。
第二次護憲運動の直接のきっかけは、清浦奎吾(きようらけいご)が元老からの指名で内閣総理大臣になったことにあります。
加藤友三郎、山本権兵衛と元老の意向で決まった内閣総理大臣が2人続きました。そうした状況に政党政治を行いたい政治家は不満をつのらせていました。
このような不満が溜まっている中、清浦奎吾(きようらけいご)が元老からの指名で内閣総理大臣に就きます。3人連続で政党政治を遠ざけている人選です。政党政治を行いたい政治家の不満はさらに強くなります。
そのうえ、清浦奎吾(きようらけいご)は政党に所属する政治家を1人も入閣させませんでした。
清浦奎吾(きようらけいご)の前の加藤友三郎内閣や第二次山本権兵衛内閣でも、最低1人は政党に所属する政治家を入閣させていました。それが清浦内閣ではゼロです。
この事態に不満が爆発します。
この時代、有力な政党は3つありましたがその3つの政党すべてが清浦内閣を敵とすることで団結します。清浦内閣に内閣不信任案を提出しようとしました。
これを察知した清浦内閣は衆議院の解散を決定します。解散後の選挙で、反清浦内閣派の議員の落選を期待したのです。
ところが、衆議院解散後の総選挙でこれらの議員はのきなみ当選し、逆に清浦内閣を支持する議員が落選する事態になってしまいました。
戦前の衆議院は現在の衆議院よりも力が強くありません。ですが、衆議院の協力がないと内閣は政治をスムーズに行えません。
清浦内閣は政権の運営が不可能になると判断し、総辞職します。5ヶ月ほどの短命内閣となりました。
清浦内閣が総辞職した後、衆議院の第1党になったのは憲政党でした。その憲政党の党首であった加藤高明(かとうたかあき)が内閣総理大臣になります。
高橋是清内閣が総辞職して以降、2年ぶりの政党内閣の復活です。このように清浦内閣を倒し、政党政治を復活させた一連の流れが第二次護憲運動です。
加藤高明(かとうたかあき)が内閣総理大臣についてから犬養毅(いぬかいつよし)が五・一五事件で暗殺されるまでの8年間、内閣総理大臣は衆議院の第1党の党首が任命され続けました。このような内閣総理大臣の決め方を「憲政の常道」と言い、現在の内閣総理大臣の決め方に受け継がれています。
さて、長々と第二次護憲運動について説明してきましたが、第二次護憲運動は中学校のテストや入試には出ません。一応、教科書に載っていますが、問題として出されたのを見たことはありません。
第一次護憲運動はよくテストや入試で出ます。その違いは何でしょうか?
第一次護憲運動は民衆の暴動が起きるなど、国民規模の政治運動でした。この運動の結果、元老の力は弱まり本格的な政党政治が始まるきっかけとなります。
これに対して第二次護憲運動は一部の政治家達の主導権争いであり、一般民衆の運動ではありませんでした。インパクトや影響の大きさでは第一次護憲運動の方がどうしても目立つものになります。
こうした規模の違いや変化の大きさの違いが、中学校での扱いの違いにつながるのでしょう。
しかし、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣で普通選挙法が成立します。
それまでの選挙は財産のある金持ちしか選挙で投票できなかったのが、25歳以上の男子なら誰もが選挙で投票できるようになる画期的な法律です。
この輝かしいような法律と同時に悪名高い治安維持法も制定されます。
仮に第二次護憲運動で加藤高明内閣が成立しなかったら、普通選挙法の成立は確実に遅れたはずです。それが日本を良い方向に導くのか悪い方向に導くのかは分かりませんが、確実に日本の歴史は変わります。
中学校ではほとんど扱われない第二次護憲運動ですが、日本の転換点であることは確かなのです。