第二次護憲運動②
こんにちは講師の高野です。前回は大正時代の第一次護憲運動についてお伝えしました。今回は本題の第二次護憲運動の背景についてお伝えします。
第一次護憲運動で第三次桂内閣が倒れましたが、ここからすぐに政党政治に切り替わったりませんでした。
初めての政党内閣を成立させた原敬が東京駅で暗殺されると、原敬(はらたかし)の所属していた立憲政友会の高橋是清(たかはしこれきよ)が内閣総理大臣に任命されます。政党政治のバトンはなんとかつながりそうだったのですが、残念ながら立憲政友会内部で大きな混乱が発生します。
立憲政友会の中で高橋是清(たかはしこれきよ)派と反高橋是清派に分かれて内ゲバが起きてしまったのです。立憲政友会は原敬のリーダーシップでまとまっていたため、彼が暗殺されると主導権争いで収集がつかなくなってしまいます。
本来ならば原敬の後を継いだ高橋是清(たかはしこれきよ)がしっかりと組織をまとめ上げるべきでしたが、失敗します。最終的に立憲政友会の内輪もめを止めることができず、高橋是清内閣は総辞職することになります。
このてんまつに元老はがっかりします。元老とは明治維新の功労者で、実質的な内閣総理大臣の任命権を持っている人たちです。この当時、第一次護憲運動の中心にいた西園寺公望も元老になっていました。
第一次護憲運動で第三次桂内閣が倒されるまで、元老は国民の意思を聞くことなく日本の政治をリードしてきました。しかし、第一次護憲運動をきっかけに自分たちの政治姿勢が時代遅れになっていることを自覚し、政党政治を認める方向に転換します。
そうした矢先に政治権力を握った政党(立憲政友会)が権力争いの末、自滅していく姿を見ることになります。元老たちは政治の主導権を一般の人々に渡そうと考えを改めた直後に、政治的に成熟していない政党政治の姿を見る羽目になったのです。
元老たち(この時代は松方正義と西園寺公望の二人)は、現在の政治家が成熟するまで、政党政治をいったん中止する方向に軌道修正します。
高橋是清内閣が総辞職した後、次の内閣総理大臣に加藤友三郎を指名します。
加藤友三郎は海軍の大将ですが、軍縮に向けて積極的な人物でワシントン海軍軍縮条約時の海軍大臣であり、内閣総理大臣に就任するとシベリア出兵の撤兵を完了させるなど、他の人が嫌がる仕事を引き受けてくれる人物でした。
とても優秀な人物ですが、内閣総理大臣に就任して1年ほどで病死してしまいます。
加藤友三郎の病死後、元老は山本権兵衛(やまもとごんべえ)を内閣総理大臣に指名します。この人物も海軍の大将ですが、加藤友三郎と同じく優秀な人物でした。第三次桂内閣が第一次護憲運動で倒れた後の内閣総理大臣で、陸軍の軍備増強を拒絶し第一次護憲運動を沈静化させる働きをしました。
山本権兵衛は日露戦争の時の海軍大臣でもあり、日本海海戦で勝利する東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命しています。東郷平八郎を任命する際、明治天皇から「どうして東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命するのか」と聞かれ「東郷は運の良い男ですから」と答えたというエピソードがありますが、山本権兵衛自身は運のない男でした。
第三次桂内閣の後、第一次山本権兵衛内閣を組閣し軍備抑制といった辣腕を振るいますが、シーメンス事件という汚職事件が海軍で起こります。この汚職事件に山本権兵衛は直接的に関与していませんが、海軍大将であったため責任をとらされる形で総辞職することになりました。
加藤友三郎の病死後に発足した第二次山本権兵衛内閣も、不運なできごとが起きて総辞職することになります。
加藤友三郎が病死し、山本権兵衛が内閣を組織する間に関東大震災が発生しました。
そのため、山本権兵衛は内閣総理大臣に就いてそうそう、この大災害の復興に取りかかることになります。しかしその最中、昭和天皇(この時はまだ皇太子)の暗殺未遂事件が発生します。この事件は東京の虎ノ門で起きたため、虎ノ門事件と呼ばれます。
昭和天皇の暗殺は失敗しますが、この事件の責任を取るため、またしても山本権兵衛内閣は総辞職します。4ヶ月ほどの短命内閣でした。
第一次・第二次内閣ともに山本権兵衛自身に落ち度はないのに総辞職しないといけませんでした。なんとも不運が重なった内閣です。
こうして第二次山本権兵衛内閣が倒れた後、元老は清浦奎吾(きようらけいご)を次の内閣総理大臣に据えます。そしてこれが第二次護憲運動の直接のきっかけになります。