第二次護憲運動

こんにちは講師の高野です。先日生徒から「第一次護憲運動って教科書に出てきますけど、第二次護憲運動ってどういうものなのですか」という質問をされました。良い質問だなあと感心しました。

第二次護憲運動はテストや入試で出ませんし、教科書にもほとんど記述がないのでスルーしてしまうことの多い出来事です。

「第一次護憲運動って、第一次と頭に付いているから第二次とか第三次護憲運動ってあるのかな?」と考えないとこうした質問は出てきません。この質問をしてくれた生徒は自分でしっかり考えていて素晴らしいです。

第二次護憲運動は大正時代にあった民主主義運動です。護憲運動は第二次までしかなく、第三次護憲運動はありません。

第二次護憲運動を知るためには、第一次護憲運動を知っておかないといけません。テストや入試に出るのはこの第一次護憲運動です。

日本の政府のトップは戦前も現在も内閣総理大臣(首相)ですが、戦前と現在では内閣総理大臣の決め方が違います。

現在の内閣総理大臣は、国会の投票で選ばれます。内閣総理大臣を選ぶ国会を特別国会と言い、定期テストや入試でもよく出されます。

内閣総理大臣を特別国会で決めるというルールは、現在の憲法にバッチリ書かれていて明確な決まりとなっています。

それに対して、戦前の内閣総理大臣の決め方はあいまいなものでした。

えっ、と思うかもしれませんが、戦前は内閣総理大臣の決め方は当時の憲法や法律に書かれていません。

元老と呼ばれる明治維新の功労者が話し合い、その話し合いで決まった人物を内閣総理大臣として天皇に推薦、天皇が任命という流れで内閣総理大臣は決まっていました。しかしこの決め方は法律や憲法には明記されず、慣習として存在するというものでした。

そのため、大日本帝国議会という国会はあったものの、政府のトップである内閣総理大臣を決める力をもっていませんでした。明治時代の内閣総理大臣は元老という一部の権力者によって密室で決められるという存在で、一般の人々の意見は反映されませんでした。

明治天皇が亡くなり大正時代に入ると、元老の力が弱まり政党の力が強くなります。

明治時代の終わりから大正時代の初めの頃まで、内閣総理大臣は桂太郎(かつらたろう)と西園寺公望(さいおんじきんもち)という二人の人物が、元老の推薦で交互に内閣総理大臣に任命され続けました。そのためこの時代を二人の名字をとって桂園(けいえん)時代といいます。

この二人の内、西園寺公望は立憲政友会という政党のトップだったので大きく問題視されることはなかったのですが、桂太郎の方に問題がありました。

桂太郎は、2019年に安倍晋三に超されるまで、歴代最長の首相在任日数記録を持っていました。

あだ名はニコポンで、いつもニコニコしながら肩をポンとたたく親しみやすさを持った人物でした。日露戦争の時の首相でもありました。

この人物は陸軍大将でもあり、支持基盤は官僚や軍人、貴族院でした。西園寺公望の支持基盤が立憲政友会という政党や衆議院だったのとは対照的です。

1912年(大正元年)、軍事費の拡張を抑えようとした西園寺公望内閣が陸軍の反対で倒れ、その後釜として桂太郎が三度目の内閣総理大臣に就任します。

これが大騒動になります。

陸軍は軍事負担を増やそうとしたのを西園寺公望に否定されたため、逆ギレ気味に西園寺公望内閣を総辞職に追い込みました。その陸軍の大将が内閣総理大臣に就いたのです。これに納得できない民衆は、国会議事堂や交番、新聞社に押し寄せ抗議します。

こうした民衆の抗議(騒乱)の結果、第三次桂太郎内閣はわずか62日で倒れます。これが第一次護憲運動です。民衆の自発的な動きが政治に大きな影響を与えたことが、日本の民主主義(デモクラシー)の発展にとって重要な出来事であると評価されています。

ちなみに、第三次桂太郎内閣は62日で終わりましたが、この62日という在任期間は歴代第3位の短さです。歴代で1番短い在任期間は、なんと現在の内閣総理大臣である岸田文雄の第一次岸田内閣で38日です。去年の選挙で勝ったため岸田首相は現在の第二次岸田内閣を組閣できましたが、選挙に負けていたら内閣総理大臣・総在任期間ワースト1に輝くところでした。去年の衆議院総選挙は、不名誉な記録更新がかかった選挙でもありました。