ロシアのウクライナ侵攻について⑭

こんにちは講師のたかえもんです。

プーチンが大統領に就任して以降、愛国教育は強化されました。それと並行して、都合の悪い情報の公開が停止されました。エリツィン時代の情報からソ連時代の情報まで多くの情報が非公開となっています。

ソ連時代の末期にゴルバチョフが書記長に就任しました。ゴルバチョフはこのままの体制ではソ連はもたないと考え、様々な改革(ペレストロイカ)に取り組みました。ゴルバチョフの改革(ペレストロイカ)の1つに、それまでソ連が隠してきた情報の公開(グラスノスチ)があります。

ソ連は建国当初から多くの非人道的な行いをしてきましたが、そうした都合の悪いことは隠して表に出ないようにしていました。それがゴルバチョフの改革(ペレストロイカ)で公開されるようになったのです。その結果、ソ連の様々な悪事が暴かれ、結果としてソ連を崩壊させる一因となります。

ゴルバチョフの情報公開(グラスノスチ)で明らかになった悪事の1つにカティンの森事件があります。

1939年9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻しました。これが第二次世界大戦の始まりです。

ソ連は事前にナチスドイツと秘密条約を結んでいて、9月17日にポーランドへ攻め込みます。ナチスドイツの侵攻をどうにか防いでいたポーランドにとって、ソ連の背後からの一撃がとどめとなり、ポーランドは消滅します。

ポーランドに攻め込んだソ連は10万人以上のポーランド人を捕虜にしました。このポーランド人捕虜の内、兵士の大半は解放されます。しかし捕虜にした約1万5千人のポーランド人将校を解放することはありませんでした。

ソ連は捕虜にした約1万5千人のポーランド人将校をウクライナにある強制収容所へ送り、最終的に全員を処刑します。その遺体は近くの森に埋めました。これがカティンの森事件です。

処刑された将校の多くはナチスドイツの侵攻に対抗するため招集された予備役でした。この予備役の人々は弁護士や医師、科学者。教授、政治家と言った高度な教育を受けた人々でした。いわばポーランドの頭脳とも言える人々です。

ソ連はこうした人々を殺すことでポーランドの文化を抹消し、ポーランド支配を容易なものにしようと考えていたのです。

ポーランドでの虐殺というとナチスドイツのアウシュビッツが有名ですが、ソ連も実はポーランド人の虐殺を行っています。

こうしたやり口は現在のロシア軍にも受け継がれているようです。キーウ郊外のブチャで410人が虐殺されていることが判明しました。ブチャはロシア軍が侵攻を開始した最初の1ヶ月間占領されていた都市です。ロシア軍がキーウ攻略に失敗し、撤退した後に虐殺された遺体が発見されました。

ロシア軍はキーウを攻略し、ウクライナを制圧する前の段階でこうした痛ましい出来事を起こしました。もしロシア軍が当初の目論見通り、最初の3日間でキーウを制圧出来ていたらどうなっていたのか。おそらくブチャの何倍もの規模の虐殺が発生していただろうと考えられます。

話をカティンの森事件戻すと、この虐殺事件をソ連はずっと否定し続けました。

1941年6月22日、ナチスドイツはソ連との不可侵条約を破りソ連に攻め込みます。ソ連領のウクライナを制圧したナチスドイツは、カティンの森事件で処刑されたポーランド人将校の遺体を発見します。そしてこれがソ連の起こした虐殺事件であると喧伝します。

ところがソ連はこの事実を否定します。逆にこの虐殺を起こしたのはナチスドイツであり、濡れ衣を着せようとしているという声明を出します。

実際にナチスドイツは各地で虐殺を起こしていたうえ、戦時中ということもあってイギリスに代表されるナチスにドイツに敵対する国々はソ連の弁解を受け入れます。

第二次世界大戦が終結した後も長らくソ連の「公式声明」が事実として認められていました。ゴルバチョフが情報公開(グラスノスチ)を行わなかったら、真相は闇のままだったでしょう。

ロシア連邦はソ連の後継国家であることを宣言しています。このことはソ連に認められた権益を引き継ぐと言うことを意味しますが、負の体質も受け継ぐという宣言でもあったようです。

ロシア連邦は、ソ連の負の部分ばかりを継承していることが今回のウクライナ侵攻ではっきりしました。