太平洋戦争〜もう一つの世界線⑥

こんにちは講師のたかえもんです。

九州南部の制圧を目的したオリンピック作戦に対して、日本軍は特攻(特別攻撃)に大きな期待を寄せていました。というのも、沖縄戦で戦果をあげていたからです。

オリンピック作戦は1945年11月1日に予定されました。沖縄戦はその7ヶ月前の4月2日に本格的に始まります。

この沖縄戦で日本軍は敗北し、1972年まで沖縄はアメリカの統治下となりました。今年2022年は沖縄が日本に返還されてからちょうど50年になります。

この沖縄戦でも日本軍は大規模な特攻(特別攻撃)を行いました。

この時の特攻(特別攻撃)で日本軍は合計3067人の死者を出しましたが、アメリカ軍に死者4907人負傷者4874人の被害を与えています。

特攻(特別攻撃)でのアメリカ軍の死者は日本軍の約1.5倍となり、負傷者も含めると日本軍の3倍以上の被害を受けました。

沖縄戦は最終的に日本軍の敗北に終わりますが、この時に実施された特攻(特別攻撃)がアメリカ軍に与えた損害は大きく、アメリカ軍に衝撃を与えます。

終戦後に調査したアメリカ軍は「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」 という一文を報告書に載せます。

また、特攻(特別攻撃)を受け続けた海軍(ネイヴィー)の司令官が沖縄に上陸していた陸軍(アーミー)の司令官に、「海軍は、毎日1.5隻ずつ艦船を失っている。その為、五日以内に第一線が動かなければ、このいまいましいカミカゼから逃れる為に、他の誰かを司令官に変えて前進させるぞ。」 と脅迫めいた通告をするほど、特攻(特別攻撃)は効果がありました。

沖縄戦での特攻(特別攻撃)の戦果を見た日本軍は、オリンピック作戦を迎え撃つ際にも特攻(特別攻撃)の有効性を前面に出した作戦を立てます。

九州南部に上陸しようとする連合軍の輸送船に、4000機の特攻(特別攻撃)をかけようとしたのです。4000機による特攻(特別攻撃)が実行できれば、輸送船に搭載されている上陸戦力の3割を撃破できると日本軍の上層部は計算しました。

そして特攻(特別攻撃)でボロボロになった敵上陸部隊を日本の陸軍が攻撃すれば、第1次上陸部隊は撃退できると判断したのです。

通常攻撃の成功が見込めない日本軍にとって、攻撃の成功を見込める唯一の方法は特攻(特別攻撃)となっていました。

特攻(特別攻撃)の最悪な点は、外道と言うべき非人道的手段でありながらも、攻撃の成功という観点では最高の効率を誇るというジレンマにあります。

合理的精神と狂気が結びついて生まれた特攻(特別攻撃)は、純戦術的には最適な選択でした。

しかしながら、もっと大局に立って見ると失敗だったと言わざるを得ません。

特攻(特別攻撃)は有効な戦術でした。だからこそ、終戦が遅れる原因の1つになってしまいます。

特攻(特別攻撃)によって「まだ戦える」と軍や政府が思ってしまったため、少しでも早く敗北を受け入れるべき状況なのにずるずると戦争を継続してしまったのです。

戦争が長引くほど、国民への被害は増えます。太平洋戦争での日本の死者は軍人230万人、一般人80万人、合計310万人と言われています。この310万の死者の9割は太平洋戦争の最後の1年で発生しています。太平洋戦争の最後の1年はすでに大勢が決し、日本の敗北が明らかになっていた時期でした。

終戦に向けて意思を統一するのに多くの障害があったにせよ、もっと早く敗北を受け入れれば200万以上の人が死なずに済みました。

そうした判断を誤らせた原因の1つに特攻(特別攻撃)の戦術的有効性があるので、やはり特攻(特別攻撃)は失敗だったと言わざるを得ません。