ロシアのウクライナ問題について⑥
こんにちは講師のたかえもんです。1991年12月25日にソ連が崩壊したことでウクライナという国は独立しました。
ようやく独立ができたということで、この独立をウクライナの人々は喜びをもって迎えたように思われるかもしれません。ですが当惑をもって迎える人々がかなりいました。
300万人以上の餓死者を出したホロドモールに代表されるように、信じられないような圧政がウクライナに対してなされました。当然ソ連に対する恨みを持つ人は多くいました。しかし、スターリン死後そうした過酷な時代は終わりを告げます。
ウクライナはソ連構成国の中でロシアに次ぐ第二位の人口と経済規模を持っていました。そのため数多くのソヴィエト・エリートを輩出し、ソ連のナンバー2という立ち位置にいました。
ロシアに比べれば劣っているものの、そのほかの民族に比べれば上位の存在であったのです。
バルト三国やジョージア(サカルトヴェロ)といった国々はソ連崩壊の前から独立運動が盛んでしたが、ウクライナはそうではありませんでした。ソ連が崩壊したため自動的に独立することになっただけだったのです。
下の文章は、あるジャーナリストがウクライナ独立時の様子についてリヴィウに住んでいる夫妻にインタビューしたときの様子を書いたものです。
夫婦はずっとウクライナで暮らしてきたが、どちらもまさに生まれようとしていたウクライナ政府になんの責任も感じなかったし、他のウクライナ人に対して特別の結びつきの感情をもたなかった。この点で、二人はポストソビエト世界に住む大多数の人間と似ていた。ベラルーシ人も、カザフ人も、ロシア人でさえもしばしば「新しい」国、新しい同胞に対してなんの忠誠心も感じなかった。ソ連が崩壊したときこれらの人々は突然自分が、それまで何十年も存在したことがない代物―そんなものがそもそもあるとして―の市民であることを見出したのである。
ウクライナの独立はウクライナに住む人々の合意によって達成されたものではなく、状況に流されてという面が強いです。
ウクライナは国家が国家としてまとまるための、統合の原理が形成される前に独立が達成されてしまいました。こうした経緯から、ウクライナには国家への帰属意識が低い人々が多くいました。「ウクライナは国家だが、まだ国民ではない」とアメリカの外交官に言われるほどだったのです。
それが一変するのが2014年のロシアによるクリミア併合、そして今回のウクライナ侵攻です。
大義名分の無いロシアの一方的な侵略によって、ウクライナに住む人々はウクライナ国民になりつつあります。理不尽な敵に立ち向かうために強い団結が生まれているのです。
共通の敵に抵抗するために生まれた紐帯が、まことに身勝手なロシアの暴挙を挫きつつあります。
このウクライナの人々の心の強さが正しい方向に使われ、報われることを願わずにはいられません。